文化財・史跡紹介
 
富津市には、数多くの文化財・史跡があります。
 
●織本花嬌と小林一茶
花嬌は、江戸中期(元文年間:1736〜41)に上総国西川村(現在の富津市西川)の名主小柴庄左衛門の娘として生まれた。本名を園といったが、長じて隣村の富津村名主・織本嘉右衛門(のちに永詳と称し、砂明と号した)の妻となり、文化7年(1810)に死去するまで俳人として活躍した。
一茶は、花嬌の生前に6回、死後に6回富津を訪れている。
このほか一茶は千葉の各地を訪れており、特に花嬌の死後(文化9年=1812)には、よく布施弁天(常磐線北柏駅の近くにある)に足をはこんだという。布施弁天は目鼻の整ったキチッとした顔だちで、花嬌と同様美人といわれる。そのためか、一茶にとって花嬌は永遠の恋人ともいわれている。当時40歳を過ぎていた一茶は、花嬌に対する思いを寄せて苦悶すること数年、相手にそれを告げることができないうちに病没され、生涯を終わるまでその面影を追い続けたといわれる。一茶は自分のこうした切ない気持ちを俳句に託して次のような句を残している。
 『近寄れば祟る榎ぞ秋の墓』
 『折れば手のくさる榎や夕涼み』
 『故ありてさわらぬ木なり夕涼み』
また、一茶は花嬌の百ヵ日忌に
 『草花やいふもかたるも秋の風』
 『蕣の花もきのふのきのふ哉』
と悲しみの句を作り、さらに三回忌には
 『目覚しのぼたん芍薬でありしよな
としのんでいる。
 花嬌の代表的な句は
 『用のない髪と思へば暑さ哉』
 『名月は乳房くはえて指さして』
 
●飯野陣屋跡(下飯野御屋敷)
飯野藩主保科氏の居所で周濠が県指定文化財である。
飯野藩は2万石であるが初代の正貞の母は徳川家康の異父同母妹で名門と言われた家柄である。
陣屋は慶安元年(1648)保科正貞が築造したといわれ、広さ約13万平方メートル(4万坪)会津若松城の濠内の面積に匹敵し、日本三大陣屋の1つといわれている。日本三大陣屋(九州徳山・越前敦賀・上総飯野)
 
●浄信寺と保科正景の墓
保科氏は清和源氏源頼信よりでて、その後裔の正則が信濃国(長野県)高井郡保科で生まれたため、以降保科を氏とした。正則の曽孫のうち正貞が慶安元年(1648)飯野初代領主として飯野陣屋に居住した。2代目領主正景は、正貞の長子として元和2年(1616)に生まれ、寛文元年(1661)に父の遣領を継いで、飯野領主となった。    
 
●原口照輪生誕地
原口照輪は文化12年(1815)川名村林家に生まれ、成田山新勝寺・京都智積院で修業し、慶応3年(1867)新勝寺の第13代住職となり、廃仏毀釈の政策の折、機知を働かせ新勝寺を廃寺から救い、学校、警察、道路、橋梁、庭園の修造などに功績があり、成田山の中興といわれ、明治15年(1882)死去しました。
 
●灯籠坂大師
縁日は毎月21日、特に12月と1月はにぎやかです。
 
●薬王寺のオハツキイチョウ(お葉付き銀杏)
イチョウはとても古いタイプの植物、雄樹・雌樹がある。更に各地にあるオハツキイチョウ(お葉付き銀杏)は葉っぱの上に実を結ぶ古いタイプのイチョウで先祖がえり?らしい。樹高18m、根回り3.1mの雌樹で文化9年(1812年)に奥州白川城主松平越中守定信が領国である白河から取り寄せ手植えたものと伝えられています。県指定天然記念物に指定されています。
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